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萩往還に行ってきました

7月16・17日に、山口県人として一度は行ってみたかった、郷土の誇りでもある萩往還を歩いてきました。この萩往還は、毛利氏が江戸への参勤交代に使う御成道として、慶長9年(1604年)萩から三田尻(防府)まで開かれました。

この念願の萩往還の旅は、萩駅(写真左・中央)を10時に出発して途中佐々並市(16時半着)で宿泊し、翌日7時半出発の山口市の瑠璃光寺(12時半着)までの約35キロを、一泊二日で踏破するもので、総勢14人が参加しました。

右写真は涙松(行くも帰るも萩城下町が最終・最初に見える峠にあるこの松の下で涙した人が多いとのこと)の石碑で、安政の大獄で江戸送りとなった吉田松陰が、ここで一首を残したものが書かれてあります。

途中一里塚(写真左の奥の方にある)や道の駅「萩往還」を経由して行きました。写真中央は、萩往還を頻繁に利用したであろう高杉晋作や伊藤博文ら松下村塾生たちの銅像が道の駅に並んでいました。

写真中央は、お殿様一行が小休止を取るために設けられた御駕籠建場が復元されており、これ以外にも、長い萩往還の道中で幾つかの休憩所があったそうです。

写真左は、一升谷の10合目にある石碑です。(一升谷とは、一升の炒り豆を食べながら歩くと、坂を上りきるまでに丁度食べ尽してしまうという長い谷の意味)

萩往還の大部分は、山の中を通って作られており、急な山道を雨水から守るため、先人が考えた石畳(両脇に溝が作られ)が残され、保存のためのメンテナンスも程よくされています。

途中、県道の横を通ったり、今となっては県道に代えられた箇所は舗装された道を歩いたり、また、田圃道を通ったりして行くルートになっています。

この萩往還は、その遺構が人の手によって歩きやすく保存・維持されており、今回歩くうちに、幕末の維新の志士たち(久坂玄瑞や坂本龍馬など)が時代と共に駆け抜けたであろうことに想いを馳せながらの旅となりました。

左写真は、二日目の始まりで、佐々並市に一泊した宿から、清々しい朝(7時半)の旅立ちです。

右写真は、当時利用された(北欧に見られる)サウナ式のお風呂(石を組んだ室の中に、ワカメなどの海藻を敷いたそうです)を再現したものです。洋の東西を問わず、同じような文化が存在するということは感慨深いものがあります。

写真左は一里塚で、1里ごとに作られた築山の原型に近い形で残っている県指定の史跡です。写真中央は萩往還を往来する旅人の休憩場所としても用意された茶屋の遺構です。今ある復元された茶屋は、萩往還の最大の難所「市の坂」にあったとされるものです。

右の写真は、萩から来る旅程で、最後の長くて急な坂道(42曲がり)を、やっとのことで下り終えて辿り着いた、ホッと一息のモニュメントです。

今回の萩往還最終地の瑠璃光寺五重塔前で記念撮影。その後日本の歴代の首相も利用したという山口の迎賓館の彩香亭(写真中央)で、お昼を頂きました。写真右は彩香亭の中にある100畳の大広間で、そこには伊藤博文から始まり歴代首相の主な方の直筆の額がかけてあり、時代を感じさせるものでした。

今回一緒に歩いた仲間の経歴を見ると、私以外は何れも100kmウオークに参加したことのある強者たちばかりでした。(後で判明してゾッとしました)

でも、半月板を痛めた右足をかばい、左足にマメを5つ作りながらなんとか歩いたものにとっても、また歩きたくなる魅力(魔力)を持った萩往還でした。

 

 

 

 

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